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空の晴れた日には (5月26日 14時)
男体山などの姿が窓からはっきり眺められた。社の森、日光の町まで続いた杉並木なども、目前に黝んで見えた。大谷川の河原も、後の高窓から見られたが、笹村はどこを見ても沈黙の壁に向っているようであった。
家のことが、時々目前に浮んだ。向き合っている時には見られなかったお銀の心持や運命も、こうして遠く離れていると、はっきり解るように思えた。肉体とともに、若い心の摺りへらされて行くお銀の胸には、まだ時々恋愛の夢が振り顧られた。充たしがたい物質上の欲求も、絶えず心を動揺させていた。それを踏みつけようとしている良人の狂暴な手は、年々反抗しがたいものとなった。
「子供にもそう不自由をさせず、時々のものでも着て行ければ私は他に何にも望みはない。」
お銀のそういう言葉には、色の剥げて行く生活の寂しい影がさしていた。
笹村は、ある日劇場の人込みのなかで、卒倒したお銀の哀れな姿を思い出さずにはいられなかった。夫婦はその日、新橋まで人を見送った。そして帰りに橋袂で、お銀の好きな天麩羅を喰べた。
「ああおいしい。」
お銀はそう言って、笹村の顔を見ながら我ながらおかしそうに笑った。
「よく喰うな。」笹村は苦笑していた。
二人は腹ごなしに銀座通りを、ぶらぶら歩いた。
「私こんなところを歩くのは何年ぶりだか、築地にいたころは毎晩のように来たこともありますがね。」
お銀はそう言いながら、珍らしそうにそこらを眺めていた。