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別に何の感じもない (7月2日 0時)

そこから神保町の方嚮へと歩くのだったが、その辺は不断通っていると、別に何の感じもないのだったが、今そうやって特殊の目的のために気を配って歩いていると、昔その辺を毎晩のように散歩していた気軽な下宿生活の匂いが、その時代の街の気分と一緒に、嗅げて来るのであった。濠端の近くにあった下宿の部屋が憂鬱になって来ると、近所にいた友人の画家を誘って、喫茶店の最初の現われとも言える、ミルク・ホウルともフルウツ・パラアともつかない一軒の店で、パイン・アップルを食べたり、ココアを飲んだりした。ある夜は寄席へ入って、油紙に火がついたように、べらべら喋る円蔵の八笑人や浮世床を聴いたものだった。そうしているうちに、彼は酷い胃のアトニイに罹った。
「あれから何年になるか。」
 彼は振り返った。
 神保町の賑やかな通りで、ふとある大きな書店の裏通りへ入ってみると、その横町の変貌は驚くべきもので、全体が安価な喫茶と酒場に塗り潰されていた。透かして視ると、その垠に春光館と白く染めぬいた赤い旗が、目についたので、庸三はどうせ無駄だとは思ったが行って見た。するとその貧弱なバラック建の下宿兼旅館の石段を上がって、玄関へ入って行った彼の目の前に、ちょうど階段の裏になっている廊下の取っ着きの、開きの襖があいていて、その部屋の入口に、セルの単衣を着て、頭の頂点で彼女なりに髪を束ねた葉子が、ちょこなんと坐っていた。ほっとした気持で「おい」と声かけると、彼女は振り返ったが、いくらか狼狽気味で顔を紅くした。そして籐のステッキを上がり框に立てかけて、ずかずか上がろうとする庸三に、そっと首をふって見せたが、立ち上がったかと思うと、階段の上を指さして、二階へ上がるようにと目で知らした。庸三はどんどん上がって行った。彼女もついて来た。

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