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ラジオの放送 (5月8日 22時)
始めて安来節や八木節などというものを聞く機会を得た。
にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。
自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯を聯想する。
しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。
謡う人の姿を見ないで、拡声器の中から響く声だけを聞く事によって、そういう感じがかえって切実になるようである。
われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを抛棄して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。
ただその行為のどこかに超自然的な点があっても、それは智恵のたけた美女に打ち込んでいる愚かな善良な男の目を通して、そう見えたのだ、と解釈してしまえば、おのずから理解される場合がはなはだ多い。
それにもかかわらず、この書に現われたシナ民族には、立派にいわゆる「狐」なる超自然的なものが存在していて、おそらく今もなお存在しているにちがいない。
これはある意味でうらやむべき事でなければならない。
少なくも、そうでなかったとしたら、この書物の中の美しいものは大半消えてしまうのである。