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鉄の棒を曲げる (7月1日 21時)
鬼という綽名も一つはそうした意味で附けられたのであるが、このハドルスキーの金剛力には遠く及ばなかった。彼は籐椅子を一つ抱える位の力で私を締め上げている事が、明かに私の背中に感じられた。そうして自信のある柔道の手を施す術もないうちに私の両肩は、巨大な噛締機にかかったように痺れ上って、抵抗する力もなくなってしまったばかりでなく、肋骨がメリメリと音を立てて千切れて行くような……今にも肺臓が引き裂かれて、呼吸が止まりそうな大苦痛を感じ初めたのであった。
……死ぬのだ……俺は殺されるのだ……楽屋に連れて行かれて……。
……そうした絶望的な予感が二三度頭の中に閃めいて、私の抵抗力を無理に振い起させた。私はただ力なく藻掻きまわった。
……突然……大砲を連発するような響きが楽屋の方に起った。それと一緒に狂わしい馬の嘶きと、助けを呼ぶ外国人の声とが乱れて聞えた。馬が狂い出して厩の羽目板を蹴っているのだ。
その音を聞くと私は気の抜けた風船玉のようにぐったりとなった。
けれども騒ぎの方は次第に烈しくなった。とうとう三十頭の馬が皆騒ぎ出したらしく、どかんどかんばりばりと板を蹴破る音、嘶く声、急を呼ぶ人々の叫びが暴風のように、又は戦争のように場内に響き渡った。その中から髪を振り乱した素跣足の女が十人ばかり、肉襦袢ばかりの、だらしない姿のまま悲鳴をあげて場内へ逃げ込んで来た。
これを見たハドルスキーは私を抱えたまま立ち止まって二三秒の間じっと考えているらしかったが急に私を放して巡査と人足に渡して、巧みな日本語で、
「此奴を逃がさないようにして下さい。罪人ですから……」
と云い捨てたまま、他の西洋人と一緒に楽屋の方に走って行った。