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酒が飲みたくなった (3月26日 21時)

今夜は宿屋で夕飯の膳に徳利の乗っていないのを発見したが、彼は酒を持って来いとも言わなかった。宿の亭主もなんだか治六の味方をしているらしいのが、彼の癪にさわっていたからであった。どこへ行っても酒は飲めると、彼は碌々に飯も食わずに宿を飛び出してしまったのであった。吉原へ行けばなんでも勝手なものが食える――それを知りながら彼は並木通りの小さな茶漬屋の暖簾をくぐった。吉原へ行こうか、行くまいか、分別がまだ確かに決まらないからであった。
 田楽豆腐と香の物で彼はさびしく酒を飲んでいた。今夜に限って、吉原へ行くのがなんだか気が進まなかった。八橋から又ぞろ身請け話を持ち出されるのが何分つらいからであった。
「おれは男らしくない」
 こう思いながらも、彼は八橋の前で何もかも男らしく白状する勇気がなかった。八橋がどれほどに自分を思っていてくれるか、実はその見当がはっきり付いていないからであった。八橋は自分を嫌っていないものと彼は信じていた。しかしどれほどに自分を愛しているか、その寸法を測るべき物指しを彼はもっていなかった。

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