今日:1 hit、昨日:0 hit、合計:35 hit
しばらく忘れていた (4月21日 23時)
汽車が武蔵の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と夷かな田畠や矮林が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が近くにつれて、汽車の駐まる駅々に、お島は自分の生命を縮められるような苦しさを感じた。
「このまま自分の生家へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。
「何等かの運を自分の手で切拓くまでは、植源や鶴さんや、以前の都ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。
王子の停車場へついたのは、もう晩方であったが、お島は引摺られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の迹へついて行った。静かな町にはもう明がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。
父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た石楠花や、土地名物の羊羹などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。
「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を膝に抱取った。